こんにちは。夫です。このニュースを知っていますか?
今年5月ごろ、ロシアから侵攻されたウクライナ大統領、ゼレンスキー氏がカンヌ映画祭でスピーチしたとき「新たなチャップリンが必要」と言いました。ヒトラーがきっかけとなって第二次世界大戦が始まったとき、喜劇王チャップリンは「独裁者」という映画を公開。ヒトラー失脚の要因になったと分析する人もいます。
ヒトラーとチャップリンは誕生日がわずか4日違い。ヒトラーは画家、チャップリンは芸人・作家と、若い頃はどちらも芸術を志していました。ちょび髭のトレードマークも不思議なくらい似通っています(2人とも別の理由でお互いを意識せずちょび髭をしていました)。
しかし大人になったとき、片方は世界を恐怖に陥れる独裁者に。もう片方は世界を感動と笑いに包む喜劇王になっていました。
そしてこの2人は第二次世界大戦中に直接対決します。片方は演説と軍隊を武器に、片方は笑いと映画を武器にして。この戦いはチャップリンの勝利に終わりました。「独裁者」という映画の中でヒトラーに扮したチャップリンが、ヒトラーの演説を笑いに変えてしまいました。「独裁者」が公開された後、1日に数回行っていたヒトラーの演説は、年数回程度まで激減したんです。
ゼレンスキー大統領が「新たなチャップリンが必要」といったのも納得ですね。ロシアによる侵攻はもちろん、パンデミック、環境問題、政治的分断、格差拡大…今の社会は、2回の世界大戦、世界恐慌、そしてスペイン風による史上最悪のパンデミックが起こった20世紀前半と近い雰囲気があります。そんな社会に世界中を笑わせてくれた、笑わせるだけでなく平和や愛について気づきを与えてくれたチャップリンは、まさに今必要とされています。
ということで今日紹介するのは大野裕之さんの「ビジネスと人生に効く教養としてのチャップリン」です。
また「教養のしての…」って最近よくあるタイトルの付け方だなあ。「ビジネスに効く」ってこじつけじゃない?そんなふうに思いながらもチャップリンに興味があったので手に取ってみました。でも読んでみると確かに「ビジネス」に効きます。後で詳しく紹介しますが、キャラクタービジネスの元祖だったり、今でも通じるビジネススキームを生み出していたり、さらには株で儲けたり、すごいエピソードが盛りだくさんです。
本書は
- チャップリンの生い立ち
- チャップリン代表作の謎解き
- チャップリンから学ぶビジネス
- チャップリンの未来予測
- チャップリンvs ヒトラー
の5部構成です(章立てはちょっと変えてます)。この記事では主に「チャップリンの生い立ち」と「チャップリンから学ぶビジネス」に焦点を当てて取り上げていきます。
今回は取り上げませんが、「チャップリンの未来予測」はものすごく面白かったです。なにか予言していたとかではなく、映画のテーマや演出が、現代を予期しているとしか思えない仕上がりになっているんです。例えば、当時人種差別は当たり前。というか、差別という概念さえありませんでした。でもチャップリンはたくみに人種差別を省いて映画を作っているんです。チャップリンが100年経った今も愛される理由は、チャップリンが100年後の社会を予測していたからかも知れません。
喜劇王チャップリンが誕生するまで
ということでまずは本書の第一章「チャップリンの作り方!」から、喜劇王チャップリンの誕生秘話をみていきましょう。
極貧の少年時代
チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで、ミュージック・ホールの芸人の両親のもとに生まれました。
当時のイギリスは世界の覇権国。繁栄の頂点にあるイギリスの首都、ロンドンで生まれたのです。といってもチャップリンが生まれたロンドン南部の労働者街です。当時その地方は3分の1の子どもが5歳になるまでに命を落とすような、最貧困地域でした。
そして両親がミュージックホールの芸人で、歌を歌ったり、劇に出たりしていました。つまりアーティスト、パフォーマーの両親のもとに生まれています。といってもそんなに華やかな仕事ではなく、今でいうそこそこ売れた地方芸人のような存在です。
しかしチャップリンが2歳の頃、両親が別居。母ハンナとの生活が始まりました。最初は父からの仕送りもあったようですが、父は酒に溺れ滞り、最終的には酒が原因で死んでしまいます。
この経験があるためか、チャップリン本人もお酒は少し嗜む程度で決して深酒しませんし、その遺志を継いで、今もチャップリン映画やキャラクターをお酒のCMなどに使うことはできません。
母ハンナも喉を痛め舞台に上がることができなくなり、裁縫の内職などでなんとかチャップリンと兄シドニーを育てていました。
喜劇王、初のステージ
舞台に立つ芸人の両親の元に生まれたので、チャップリンが芸事に興味を示すのはある意味当然でした。
後に俳優として映画に出るだけでなく、監督、脚本、制作すべてをこなすマルチな天才となるチャップリンの初舞台は5歳の時です。ある時、母ハンナは自分が出演する舞台にチャップリンを連れていきました。その舞台でハンナはうまく声が出ず、酔っ払ったか客から罵声を浴びせられてしまいます。困った劇場主はハンナを下げ、チャップリンを代わりに舞台に立たせました。
そういう時代なのかも知れませんが、母親が罵声を浴びせられ退場したステージに5歳の子どもを送り出すってすごいですね。見様見真似でとりあえず演技をしたチャップリンの姿に観客は大ウケ。たくさんの投げ銭をもらったそうです。これがチャップリンが初めて味わった感性の味でした。
その後、チャップリンは9歳の時、父の紹介で子どものダンスグループに所属してダンサーとして舞台の仕事をするようになりました。喜劇王チャップリンの最初のプロキャリアは、ダンサーだったんです。
転機は12歳の時。シャーロック・ホームズの公演でビリー少年役に抜擢。2年にわたる巡業公演にも参加しました。これまでミュージックホールで寸劇やダンスを披露していたチャップリンにとって、最初の正統派の芝居です。
その後、チャップリンより少し早く舞台に立っていた兄の紹介で、イギリスの人気劇団に入団し、そこで本格的な厳しい訓練を受けました。この劇団は短い寸劇を得意としており、際限なくリハーサルを繰り返して正確なリズムで笑いを生み出す手法を学びます。
さらっと書いていますが、短い間にかなり専門が移動しています。最初は舞台で歌とダンス、その後正統派の俳優として子役を演じ、劇団では寸劇と笑いを学びます。このように早い段階でいろいろなキャリアに触れたことが後の喜劇王に繋がっていきます。
ちなみにチャップリンがたった舞台のほとんどが、ミュージックホールでした。ミュージックホールは昔ながらの劇場と酒場の中間のようなものです。当時の法律は昔ながらの劇場を守るため、酒場で本格的な演劇を行うことを禁止していました。なのでミュージックホールはあくまでも「見せ物もやっている酒場」という体を取る必要があり、1つの演目は30分以内、登場人物は5人以内、それぞれの演目は全く関係ないものでないといけない、などのルールがありました。
その結果、ミュージックホールはダンスの後に寸劇が、その後マジックが、というふうに短い時間で次々と出し物が繰り広げられるバラエティショーを発展させていきました。
チャップリンの多彩さは、ミュージックホールが原点にあります。昔ながらの劇場なら1つの演目をしっかりと練習し、繰り返し行いますが、ミュージックホールでは1人で何役も、全く違うことをいろいろやらないといけません。しかも相手は酒飲みです。少人数・短時間で心を掴むには、強烈な個性が必要です。
映画界へ転身、スターへ
イギリスの人気劇団に所属していたチャップリンは、なんどかアメリカ巡業公演にも参加します。その時、チャップリンの元に電報が届きます。相手は映画会社の社長で、スター俳優の後釜としてチャップリンを雇いたいというオファーでした。
チャップリンはすでに映画にも興味を持っており、所属劇団の作品を映画化しようと提案したこともあります。映画会社から提示された給与は週給150ドル。劇団の2倍でした。
給料が2倍ってすぐにでも飛びつきたいですよね。しかもやりたかった映画です。しかしここでチャップリンは「週給200ドルはないと無理」と言い返します。そして相手と交渉し、最初は週給150ドル、3ヶ月後から175ドルという条件で契約しました。しかも一方的に契約解除できないように条項を契約変更したりもしています。極貧時代の経験から、金銭感覚には非常に抜け目がなかったんです。
チャップリンが初めて撮影に参加したのは1913年12月17日。後の映画デビュー作でもある「成功争い」でドタバタ喜劇のペテン師役を務めます。
この作品が公開された時、チャップリンは不満だったようです。自分が考えたギャグが、監督によってかなりカットされていたからです。しかし当時の映画評論家はデビューしたばかりの新人を「厚かましくも粋なペテン師を演じた才能ある俳優は、第一級の喜劇役者だ」と評価しました。
そして翌年の1914年1月6日、チャップリンといえば誰もがイメージするちょび髭に山高帽のキャラクターが誕生します。きっかけは当時撮影を見学していた「メイベルのおかしな災難」という映画監督がチャップリンに「なにか喜劇の扮装をしてこい」と無茶振りしたことです。
とはいえ、急にそんなことを言われたところで、チャップリンは大いに困ります。何のアイデアもなかったのですが、「衣装部屋に行くあいだに、ダブダブのズボン、大きな靴、ステッキ、山高帽」という組み合わせの扮装が浮かびます。その狙いは、「すべてをチグハグに」ということでした。そして、セネット(映画監督)に見た目が若すぎると不安がられたことがあったので、若さを隠すために小さな口髭をつけました。
<中略>
(その格好で演技に参加して)チャップリンは成功を確信しました。「浮浪者の扮装は、自ら創り出した人物像をわたしにはっきり感じさせたので、何があってもその扮装をし続けようと、わたしはそのときその場で決めたのだった」。事実、その後四半世紀にわたって、衣装をほとんど変えることなく「放浪紳士チャーリー」を演じ続けることになります。
引用:教養としてのチャップリン
あのトレードマークは偶発的に生まれたものだったんですね。その数日後に撮影された映画でもチャップリンはおなじ扮装をして、「大衆からはみ出す存在でありながら、万人が共感できる存在」というキャラクターとして確立させました。
デビューの年だけで36本以上の作品に出演。一部では監督も担当していました。今と当時では制作の期間やコストが違うとはいえものすごい数です。
1915年には別の映画会社に移籍。週給は1250ドルと一気に8倍に跳ね上がりました。その年に監督・脚本・主演を務める14本の短編映画を撮影し、ロマンスとコメディを掛け合わせた「ロマンティック・コメディ」というジャンルを生み出しました。
そして翌年1916年には週給1万ドルでまた移籍。今の価値でいうと年収20億円です。移籍してからの2年間で12本の喜劇映画を発表し、いずれも世界的なヒットになりました。
貧民街で育った子どもは、ミュージックホールの芸人からアメリカに渡って3年で収入は130倍、世界的スターに。大躍進ですね。
三大要素で生まれるヒット作
チャップリンの名言の一つに「僕は、公園と警官とかわい子ちゃんさえあれば、コメディを作れます」というものがあります。
1年ごとに移籍を繰り返していたチャップリンですが、当然、元の映画会社からは止められます。最初、週給150ドルで契約した映画会社との契約が満期になった時、週給500ドルで契約更新しないかと持ちかけられました。しかしチャップリンは「週給1000ドル以上じゃないと無理」といいます。これはその会社の社長より多い報酬でした。
傲慢とも思えるチャップリンの交渉に、社長は会社を辞めていったスターの多くがその後鳴かず飛ばずになっていることを伝え、なんとか移籍しないよう説得します。
その時、チャップリンが言ったのが「僕は、公園と警官とかわい子ちゃんさえあれば、コメディを作れます」という言葉。
しかし実際、次の移籍で週給1250ドル、その翌年には1万ドルになっているので、チャップリンの交渉力はさすがですね。エンタメ・アート界隈ではこういう姿勢を持つ人が少ない印象です。でもチャップリンは報酬を釣り上げて贅沢三昧していたわけではありません。最終的には自分の映画会社を設立し、たくさんの資金(もちろん興行収入もかなり見込めた)を使って、自由に映画を作ることができるようになりました。チャップリン映画の一つライムライトの名台詞に「人生に必要なのは勇気と想像力、そして少しのお金もね」という言葉がありますが、まさにそのように生きたわけです。
「公園」「警官」「かわい子ちゃん」はチャップリン喜劇の三大要素です。「公園」は世界中のどこにでもある場所でありながら利用目的が固定されているわけでもない概念的な「ただの空間」です。「警官」は権力の象徴。「かわい子ちゃん」は庶民の憧れや夢の象徴です。
どこにでもあるただの空間で、邪魔をしてくる権力に抵抗しながら夢を追いかける。このシンプルな構図が、チャップリン映画が100年経っても親しまれる普遍性の原点になっています。
とはいえ、ただ普遍的なだけでは100年も持ちません。チャップリンが異質なまでにこだわったのが、一つ一つのクオリティです。
チャップリンは同じシーンを何十回も撮り直した完璧主義者で、膨大なNGフィルムはチャップリン研究者の研究対象です。しかし、チャップリン研究者が何度見ても、なぜ撮り直したのかわからないほど完成された演技がNGフィルムには大量に含まれています。
例えば、ある映画のワンシーンで、チャップリンはコップと水など最小限の小道具だけを使って寸劇を始めます。テイク1から3まで同じ寸劇を繰り返しました。普通ならその3回のうち出来がいいものを使おうと考えますが、チャップリンはまだまだテイクを重ね、20回以上撮り直しました。やっているのは同じ寸劇です。
でも最初のテイクが2分くらいだったのに対し、基本的に同じ寸劇をやっているのに最後のOKテイクは10秒くらいにまで短縮されていました。
チャップリンは繰り返し行うことで徹底的に無駄を削ぎ落としていったんです。テイクを重ねると新しいアイデアが出て時間が延びそうですが、チャップリンはその寸劇の一番面白いところだけを抽出し、本質だけを残したのです。
チャップリンに学ぶ現代ビジネス
ここまでチャップリンの生い立ちをざっくり見てきました。チャップリンが本格的に活躍するのはこの後のことで、「モダン・タイムズ」「ライムライト」「独裁者」など誰もが知っている作品はまだ生まれていません。
1921年に公開したチャップリン初の長編映画「キッド」は、世界的に大ヒットをした歴史上最初の映画になりました。映画という文化がようやく広がってきたころ、チャップリンは動いている姿が世界中の人に知られた、人類史上初のスターになったのです。
本書ではここからチャップリンの代表作、前述の「キッド」に始まり、「黄金教時代」や「モダン・タイムズ」などの謎解きに入ります。が、これは実際に映画を見て研究されている大野裕之さんの言葉で受け取った方が染みると思うので省きました(僕はチャップリン映画を見たことがありませんが、本書を読んで見たい作品がいくつか見つかりました)。
ということでこの記事では第三章「チャップリンから学ぶビジネス」を紹介したいと思います。
エコノミスト・チャップリン
チャップリンは交友関係が非常に広いことでも知られ、アインシュタインに会ったこともありました。チャップリンの政治経済に対する洞察力に驚いたアインシュタインは、「エコノミスト(経済学者)・チャップリン」とサインしているほどです。
実際、チャップリンは80本以上の映画作品を作りましたが、公開時に損失を計上したのは1作品だけです。これは当時よりビジネスモデル・ノウハウが確立された現代のハリウッドのプロデューサーも達成できていない偉業です。優れたエンターテイナーであると同時に、稀代の経営者・ビジネスマンでもあったのです。
そんなチャップリンには面白い2つの逸話があります。次の文章を読んでみてください。
世界を覆う未曾有の不況-もはや不況を通り越して、まさに世界の危機である。各国政府・経済界はこの経済危機を乗り越えるべくさまざまな策を施しているが、まったく芳しくない。リストラとコスト削減は家計を疲弊させ、デフレを招いているし、自国産業を守るための保護貿易政策は偏狭なナショナリズムと市場の縮小をもたらすだけだ。かつてない危機に対処するためには、かつてない政策を立案せねばならぬ。すなわち、企業の業績や株価を経済の指標とするべきではなく、失業者数を減らすことを重視するべきなのだ。そのために、積極的な時短とともにワーク・シェアリングを行うこと。労働者の最低賃金を大幅にアップし、家計を刺激すること。国際的には、関税を大幅に引き下げヨーロッパにおいては通貨統合を進めるべきだ。
引用:教養としてのチャップリン
「世界を覆う未曾有の不況」はまさに今の世界経済のようです。コスト削減によって給与が下がり長年のデフレに苦しんだのはここ2〜30年の日本そのもの。保護貿易とナショナリズムも、最近よくニュースで目にしますよね。数年前にはアメリカと中国で関税合戦もありました。最近は株価と配当を重視する株主資本主義から脱却してステークホルダー資本主義を目指す動きもあります。ワーク・シェアリングは最近話題の副業。最低賃金引き上げも最近重視されていますよね。関税の引き下げもTPPやRCEPなど、日本も参加する国際的な枠組みが増えてきました。
最近書かれた文章のように感じますが、「ヨーロッパにおいては通貨統合を進めるべき」と書いてあります。ということは、EUが誕生しユーロに通貨統合された1993年以前の文章ということでしょうか。
この文章はチャップリンが1931年に執筆していた「経済界結論」という論文の内容です。実際にEUが登場する半世紀前に似たようなことを提案していたのです。保護貿易やナショナリズム、株式資本主義の弊害など、最近話題になったことを、100年近く前にチャップリンは書いていたのです。
もう一つ、面白い逸話があります。大金を稼いだチャップリンは当然、株式市場にも投資していました。しかし1929年8月、チャップリンは「絶対に株は暴落する」といい、持ち株を全て売却。カナダ金貨に換えました。
当時のアメリカは経済的繁栄を謳歌し、バブルの絶頂期です。株価はぐんぐん上がっておりチャップリンの友人は「いま売るなんてバカだ!」と必死に説得しました。
しかしその2ヶ月後、10月24日、投資している人なら聞いたことがある「ウォール街の大暴落」「ブラックサーズデー」が発生します。経済大国アメリカの混乱は世界に波及し、世界恐慌を引き起こし、後の第二次世界大戦にまで発展してしまいます。
なぜチャップリンは大暴落を見抜くことができたのか?チャップリンは優秀な経営者と同じく、株価ではなく実態をしっかりみていました。失業者が増え、貧富の格差が拡大しているという実態を冷静にみた時、株価の暴落は時間の問題だ、と分析したのです。
チャップリンにとってビジネスを見通すことは、お金を見ることではなく、人間を見ることだったのです。
引用:教養としてのチャップリン
映画監督、俳優、脚本家という経営や経済と無縁に見えるチャップリンはなぜこれほどの洞察力を身につけたのでしょうか?その要因の一つが、交友関係の多様さにあります。アインシュタインと対面で話していたことはすでにお伝えしましたが、ウィンストン・チャーチルなどの政治家、ジョージ・バーナード・ショーやH・G・ウェルズなどの作家、ガンディーなどと知り合い、意見を交換していました。
面白いのが、そこに主義主張は関係なかったということです。政治家でいうなら、いわゆる右派と左派、両方の代表的な人と交流がありました。ガンディーとは機械文明のあり方について意見が合わなかったにもかかわらず、そこから着想を経て「モダン・タイムズ」を生み出します。
「刑務所を見ればその国がわかる」といい、日本を訪れたときは歌舞伎など伝統芸能と合わせて、刑務所も訪問しています。
ちなみにチャップリンは記憶力が桁違いで、75歳の時には自分の記憶力だけで自伝を書き上げています。その中には子どもの頃に何度か会っただけの母の友人の名前もありました。数字に関することならより詳細で、母の給与や仕事時間、兄から家に送られてきたお金の額まで鮮明に記憶していました。自分の作品の興行成績となると、世界中の劇場に対して座席、動員数、日々の売上を何年経っても覚えていたそうです。
世界中のオピニオンリーダーと意見を交わして身につけた経済への洞察力、バブルに浮かれる中冷静に実態を見抜いたセンス。そして、自身の映画の大半が黒字という経営力。そんなチャップリンからビジネスパーソンが学ぶことは他にもあります。
キャラクタービジネスの発明
「誰にも真似できないオリジナリティ」なんて表現をよく聞きます。外尾追随を許さない独創性を目指せ、ということなのでしょうか。しかしながら、こういったよく聞く表現には気をつけた方がいいと思います。実際、オリジナリティというのは誰もが真似をしたくなるもので、また簡単に真似ができることも多いのです。
引用:教養としてのチャップリン
チャップリンはキャラクタービジネスの生みの親とも言われています。その最大の功績は、キャラクターにも肖像権を認めさせたことです。山高帽やちょび髭のイメージが強いので、チャップリンのコスプレは誰でも簡単にできます。実際、チャップリンが世界的スターになると「チャーリー・カップリン」や「チャーリー・アップリン」など、明らかにパクリの映画俳優が多数誕生しました。
50本ほどの模倣映画を作ってそれなりにヒットさせた人もいます。
そこで1917年、チャップリンは模倣俳優に対して大規模な訴訟を起こしました。今の感覚では当たり前ですが、当時の感覚では異例の訴訟です。肖像権の概念も確立されておらず、服装を真似ることを問題だと考える人はほとんどいませんでした。
ところが裁判所は「かの扮装はチャップリン氏の産み出したオリジナルなものである。今後、チャップリン氏の模倣を許可なく行うことを禁止する」という判決を下します。これがキャラクターに肖像権が認められた最初の瞬間であり、現代に至るまでさまざまなキャラクタービジネスが収益化できている最大の要因の一つです。
その後も「ちょっとちょび髭を大きくしました」のような屁理屈で続ける人はいました。しかしそれもすぐに減っていきます。チャップリンはスターとして成功、資金を貯めた後、自分の映画会社を設立し、自由なスケジュールと予算の中で、よりハイクオリティな映画を作るようになりました。もはや誰も真似できないレベルになったんです。
チャップリンのオリジナリティを管理するマネージャーは、チャップリンの兄シドニーが務めていました。映画会社との契約をまとめた一方で、アメリカで最初の定期航空会社を開設、アメリカ航空産業の礎を築いたやり手実業家でもあります。
裁判で肖像権が認められた後、兄シドニーは本格的なキャラクタービジネスを始めます。「チャップリン人形」や「チャップリンは磨き」など、今では当たり前になったキャラクターグッズの展開です。
ちなみに著者の大野裕之さんは日本チャップリン協会会長で、チャップリン研究の第一人者。今も続くチャップリン権利を取り扱う会社の日本代理店もされています。なので、チャップリンを商用利用したいときは大野裕之さんに相談すればいいそうです。
ディズニーと築いた現代エンタメ
なぜチャップリンはそんな普遍的なキャラクターになれたのでしょうか?
この問いに対しては、いろんな答えが思い浮かびます。代表的なものは、「チャップリンはヒューマニズムを貫き、平和を訴える映画を作った。そのテーマは普遍的であり、今も愛されている」といったものです。でも、世の中の大体の人が平和を愛していますし、たくさんの人が戦争を憎む映画を作っています。それだけでは時代を超えるキャラクターになれません。
<中略>
私は、「なぜ普遍的なキャラクターになれたのか」という問い自体が不完全なものだと考えています。というのも、そもそもチャップリン以前には「普遍的なキャラクターは存在しなかったからです。
<中略>
チャップリンこそ、私たちが<今>と呼んでいる時代をスタートさせた一人だからです。チャップリンを見ると、<今>の時代がよくわかり、<今>を生きる私たちの指針が得られるからです。
引用:教養としてのチャップリン
チャップリンは史上初めて、全世界で動いている姿がみられた最初の人です。そして、キャラクタービジネスを確立させ、”自分”という枠を超えたエンターテインメントを収益化させた最初の人でもあります。
現代を現代たらしめる理由も、映像とキャラクターが大きな要素になっています。Youtubeを使えば全世界に情報を発信できますし、キャラクターが本人を超えて活用される例もアニメなど作品の中だけに留まりません。広義に言えば、現代のエンタメにおいて、映像とキャラクターが完全に無縁、という人はほとんどいないでしょう。
そんな現代を作ったもう一人の存在がウォルト・ディズニーです。ウォルト・ディズニーは小さい頃から12歳年上のチャップリンに憧れ、小学生の時に「チャップリンものまねコンテスト」で優勝し、賞金を得たたこともあります。
つまり、世界一のアニメーション作家、一大エンタメ帝国を築いたウォルト・ディズニーが最初にエンタメでお金を稼いだのは、チャップリンのものまね芸だったんです。
そんなウォルト・ディズニーはミッキーマウスで大ヒットを生んだ後、憧れのチャップリンと面会しました。その時、チャップリンのアドバイスは「自分の作品の権利は他人に渡しちゃダメだ」だったそうです。
ディズニーも権利が厳しく、厳格に管理されていますよね。そのきっかけの一つが、チャップリンの一言だったんです。
ウォルト・ディズニーとチャップリンの関係はさらに続きます。チャップリンが設立した配給会社でディズニー作品を配給したり、画家とコラボしてチャップリンがミッキーに花を渡すイラストを描いたりもしました。
アニメといえば短編映画しかなかった時代に、ウォルト・ディズニーが長編映画「白雪姫」を企画した時、周りのスタッフはみんな反対しました。その中でチャップリンだけが応援し、モダン・タイムズの経理書類一式を渡しました。大ヒット映画の経理書類を見て、それを参考に映画館と交渉。そうして初の長編アニメーション「白雪姫」は大ヒットしたんです。
ディズニーの初期作品はほとんどが赤字。400本以上の短編作品を作っていましたが、倒産ギリギリでした。そんな時、多額のコストをかけて世に出したのが「白雪姫」で、このヒットがディズニーの全てを変えました。それまでの400作品すべてを足し合わせたよりも圧倒的に多い興行収入を産んだのです。その話は知っていましたが、その背景にチャップリンがいたことは初めて知りました。
チャップリンはキャラクターの権利を法的に確立した人物となったわけですが、ウォルトはそのノウハウを受け継いで、ミッキーマウスをはじめ多くのキャラクターでグッズ販売をします。<中略>今や一大産業となったキャラクター・ビジネスは、チャップリンが発明し、ディズニーが大きく育てたものだったのです。
引用:教養としてのチャップリン
師弟関係のような深い関係にあったウォルト・ディズニーとチャップリンですが、その後の展開は大きく違います。第二次世界大戦中、チャップリンは戦争反対、平和を訴えるため「独裁者」を作りました。一方、ディズニーは政府から受注を受けさまざまな戦争宣伝映画を作り、一時は売上の90%がそうした作品からでした。もちろん戦争に協力しなかった会社はどんどん潰れていったので、苦渋の経営判断もあったでしょう。
キャラクターの扱いについても、ディズニーはキャラクターをどんどん量産し、時代とともに変化させてきました。ミッキーマウスにも、初期のイジワルな性格はほとんど残っていません。
一方、チャップリンは、チャップリンのイメージを守ることを重視し、ほとんどリメイクも許さず、キャラクター商品にも滅多に許可を出しません。
スケールを求めるか、唯一のブランド価値を守り通すか。多角的経営を進めるか、あくまで本質を貫くか。ディズニーとチャップリンは両極端にして、それぞれの最良の例であり、両者の間にビジネスの全てがあるといえます。それは、常に弱者の視点を持っていたチャップリンとアメリカの理想を第一に思っていたディズニーの政治観の違いにも似て、社会を立体的に捉える複眼のようなものなのかもしれません。
引用:教養としてのチャップリン
なぜ今チャップリン?
ということで今回は「ビジネスと人生に効く教養としてのチャップリン」を紹介しました。
チャップリンの名前は知っている。代表作も知っている。でも見たことがない…そんな僕には刺激の連続でした。特に経済学にも精通していたというのが面白いですね。陽気で面白い人、程度のイメージだったのですが、本書を呼んでいると想像以上に厳格だったり、意外な一面を知ることができます。
最後に、「独裁者」のワンシーンにある演説を紹介したいと思います。「独裁者」はある意味もっともチャップリンのチャップリンらしい作品であり、冒頭で紹介したゼレンスキー大統領が「新しいチャップリンが必要」と言った理由でもあります。
世界大戦中にその渦中のトップをコメディにしてしまうのですから、場合によっては命の危険もあったでしょう。本書ではそうした「独裁者」制作にあたってのエピソードや、映画の中に込められたメッセージが紹介されているので、ぜひ読んでみてください。
人は自由に美しく生きていけるはずだ。なのに、私たちは道に迷ってしまった。食欲が人の魂を退くし、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の補聴で私たちを悲しみと殺戮へと追いたてた。スピードは速くなったが、人は孤独になった。富を生み出すはずの機械なのに、私たちは貧困の中に取り残された。知識は増えたが人は懐疑的になり、巧妙な知恵は人を非常で冷酷にした。私たちは考えるばかりで、感情をなくしてしまった。私たちには、機械よりも人の心、抜け目のない利口さよりも優しさや思いやりが必要だ。そういったものがなければ、人生は暴力に満ち、すべては無になってしまう。
引用:教養としてのチャップリン
もちろんこの言葉の意味を深く理解するには、演説の全文や、「独裁者」のエピソード、当時の社会情勢を理解する必要があります。しかし個人的には、この文章が本書の中で最も強く響きました。第二次世界大戦中の映画とは思えないくらい、ネット孤独や今の社会問題を言い当てています。
この記事を書いた人
-
かれこれ5年以上、変えることなく維持しているマッシュヘア。
座右の銘は倦むことなかれ。
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