こんにちは。夫です。
今日紹介するのは『禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか』です。歴史書なのか化学書なのか、はたまた哲学書なのか…非常に分類が難しい本ですが、本書を読んだあとどうなるか、それを簡潔に説明するため、本書の一番最後の文章を紹介したいと思います。
今、あなたは、『禁断の進化史』を読んでくださっている。本当にありがとうございます。でも、それが現実かどうか、実際のところはわかりません。あなたの人生は、ガラス瓶の中に浮かんでいる、ネアンデルタール人の脳が見ている夢に過ぎないかもしれないのです。もちろん、それは著者である私にも、本書をよい方向へ導いてくださったNHK出版の北山健司氏にも言えることですけれど。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
数千年か数万年先の人類がガラス瓶の中で培養した脳を見て「ようやく人工物に意識を宿すことに成功したぞ!」「この脳は今、夢を見るように外的な刺激なしに意識を持って、自分の世界を生きている」そんな会話をしているところを想像してみてください。
それがあなたの脳だと言われた時、どうやって否定しますか?「水槽の脳」と呼ばれる哲学の有名な思考実験なので、もしかしたら聞いたことがあるかもしれません。
この本のすごいところは、水槽の脳という有名な哲学実験に、進化論・科学的なアプローチのみで辿り着くことです。進化論や遺伝、脳の構造などを科学的に解説する本として普通に読んでいくと、気がつけば哲学的命題に引き込まれていくんです。
それでは早速本書の内容を紹介していきたいと思いますが、、、
哲学的思考はそのプロセスに意味があるので、要約して伝わるものではありません。なのでこの記事では本書の中で面白かった研究や事実をいくつかピックアップするにとどめたいと思います。それらの研究や事実がどのように水槽の脳に繋がっていくのかは、本書を読んで確かめてみてください。
哲学的な文脈を省いても十分に面白い、意外な事実がたくさん得られます。本書の表紙には『私たちは「バカ」だから繁栄できた?』と書かれていますが、まさにその通り。人間は進化の最前線にいるように思えますが、実は全然そんなことなかったんです。
進化の大前提「人類は”最先端”ではない?」
こういう画像をみたことがあると思います。サルから人間が進化したことを示すもので、似たようなものは教科書にも載っていた記憶があります。
しかしこの画像は事実を大きく誤認させてしまいます。サルから人間が進化した、ということは人間はサルよりも先に進化した存在であり、オラウータンやチンパンジーはこの先もしかしたら人間のように進化していくかもしれない、と考えさせてしまうからです。
ですが、事実は違います。今を生きる人間とサルは、進化の度合いとして同じ。人間とサルに限った話ではありません。今地球上にいるほぼ全ての生物は、進化のフェーズとしては原則同じ、最先端の位置にいます。
人間が最も進化した種族である。これは事実です。ですが同時に、現代生きているサルも魚も栗の木も、ぜんぶ、最も進化した種族だということです。それがわかるイメージがこちら。
こちらは「手」の進化のイメージです。チンパンジーの手は親指が短い代わりに他4本の指が長く、木と木の間をぶら下がって移動するのに便利です。一方、人間(ヒト)とニホンザルは親指と他の指が向かい合っており、ものを掴むのに便利な構造をしています。
もし人間が最も進化しているなら、チンパンジーのぶら下がる手から、ニホンザルのものを掴む手に進化し、それがさらに進化して人間の手になったことになります。
ですがさまざまな研究から、人間とチンパンジーは、ニホンザルより後になって分岐したことがわかっています。そしてぶら下がるのに便利な手ができるずっと前から、ものを掴むのに便利な手が存在していた(だからより前に分岐したニホンザルもものを掴むのに便利なてを持っている)ことがわかっています。
つまり、「手」が変化することを進化と呼ぶなら、チンパンジーの手は人間の手よりも一段進化した存在だということになります。
でも、それは手だけに注目したからであって、他の部分では私たちのほうが大きく変化しているところもある。もちろん、チンパンジーのほうが大きく変化したところも、手の他にもたくさんある。だから、「存在の偉大な連鎖」で、ヒトとチンパンジーのどちらが上にくるのかは、そう簡単に決められないのだ。
さらに言えば、進化の道筋は一直線ではない。もし、「存在の偉大な連鎖」に従えば、鳥はヒトより下にいるはずだ。ということは、「存在の偉大な連鎖」を形作るように生物が進化したとすれば、ヒトは鳥という状態を通り抜けて進化したことになる。でも、ヒトは鳥から進化したわけではない。ヒトと鳥には共通祖先がいて、そこから二つの系統が分かれた。その二つの系統は、何億年もかけて、それぞれヒトや鳥に進化したのである。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
人類が最も進化した存在なのではなく、ただそれぞれの生物が、別の進化の道筋を現代までたどり着いたというだけ。つまり、魚も人間も、進んだ道筋が違うだけで、進化レベルでいうと全く同じなんです。人間はサルから進化したんじゃありません。人間とサルには共通の祖先がいて、そこから別々の方向に進化して今に至るんです。
半分進化した目は使い物になるのか?
さて、我々日本人は9割以上が進化論は正しいと考えています。少なくとも現在わかっている情報をもとに科学的に分析すれば、進化論は正しいと言えるでしょう。
そして、アメリカでは半分近くの人が進化論を否定しているそうです。その理由は宗教的なものが大きいでしょうが、進化論のプロセスが直感に反することも事実でしょう。進化論が直感に反するからこそ、先ほどみせた「サルから人間が進化した」のように誤った解釈がたくさん出てきてしまうんです。
宗教的な理由で進化論を否定するのは自由ですが、科学的な知見から進化論はなかった!と言われると反論しにくいのも事実です。例えば、次の主張をどのように否定するか、考えてみてください。
もしも眼が自然淘汰によって進化したのであれば、まだ眼が完成する前の、途中の段階があったにちがいない。しかし、半分できた眼がいったいなんの役に立つのか。そんなものが存在したと考えるのはナンセンスである。眼というものは完成して初めて役に立つものだから、進化によって少しずつつくられたわけがない。何らかの目的を持った存在(神のようなもの)によって一気につくられたと考える方が合理的である。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
う〜ん、確かにそう言われると、眼がどのように進化してきたのか、進化論をベースに説明するのは難しいように思います…今の科学では眼がどのように進化してきたのか、完全に判明しているわけではありません。
ですが、進化の道筋を想像することはできます。
今の僕たちの眼は形も色もわかる眼です。ですが、クラゲの眼は表皮の一部に視細胞が並んだだけのもので、明るいか暗いかがわかる程度のものです。これを原始的な眼を過程しましょう。僕たちの眼と比べると、1割程度しか完成していないように思いますが、クラゲにとっては明暗がわかるだけで十分役立ちます。
そしてそのクラゲの眼が少し凹むと、光が入った方向を知ることができます。貝の一部の眼は視細胞が凹んで明暗と方向が少しわかるようになった程度です。
その凹んだ部分がさらに凹んで入り口が小さくなり、球状の空洞になると、形を知ることができます。アワビの目はそんな感じです。
そしてその目にレンズが付くと、距離を測ったりすることができるようになります。視細胞によって反応する波長が変わるようになれば、色がわかるようになります。そうなれば、今の僕たちの眼と同じ目になります。
このような道筋で進化してくれば、私たちのようなレンズ眼が進化することもできるはずだ。大切なことは、道筋の途中でも、眼がちゃんと役に立っていることだ。明るいかくらいかわかるだけでも、光が来る方向がわかるだけでも、きっとクラゲやカサガイにとっては、十分に役に立っているのだ。
このように、どの時点で考えても眼が役に立っている、そんな道筋を通って私たちのレンズ眼は進化してきた。役に立っていれば、自然淘汰が働いて、眼が複雑になっていくことも可能である。プラモデルのように、レンズ眼を少しずつ組み立てながら、進化してきたわけではない。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
さらにもう一つ、進化論でこんなに複雑な構造ができるわけがない!という意見への反論があります。そもそも、今を生きる生物の体は、上手く作られているようでめちゃくちゃ不細工な部分も多い。もし神様がパッと作ったのならあり得ないくらい無駄な構造になっているんです。
例えば喉の筋肉を動かすために脳から出ている「迷走神経」というものがあります。喉を動かすための神経なので、脳から喉まで直接繋げば、数センチ〜数十センチで十分です。
ですが、キリンの迷走神経は6メートルもあります。迷走神経はなぜか、心臓の近くの血管の下を潜るように通っています。首が短い生き物ならそんなに問題ありませんが、ご存知の通りキリンの首はめちゃくちゃ長い。そして元々首が長くないキリンから、首が長いキリンへと進化してきました。
その過程をたどっているせいで、キリンの迷走神経は脳から長い首を心臓付近まで降りてきて、そこからまた喉のほうに上がっていくので、6メートルもあるんです。
完全な設計ミスですよね。迷走神経って名前も、この意味不明な経路が由来なのかもしれません。もしも進化論が正しくなく、今いる生き物がいきなり作られたなら、キリンの迷走神経が6メートルもある理由を説明できません。
こういう不細工なところがあるのは、生物に歴史があるからだ。昔は、今とは違う形をしていたからだ。全体の形が変化すると、その変化にうまく対応できない部分が、どうしても出てきてしまう。つまり、生物は進化によって作られたために、適応的な部分と不細工な部分の両方を持っているのだ。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
偉大な火の利用
さて、本書では人間だけでなくいろいろな生き物の進化にも触れていますが、やはり人間を人間たらしめる最大の要素は「火の使用」でしょう。
ちなみに火を使う生き物は人間以外にもいます。トビなどの猛禽類の中には、雷などで火のついた枝を見つけると、それを草むらに持っていくそうです。草むらで火が広がるとトビの餌である小さな哺乳類などが飛び出してくるので、それを狙っているんです。人間以外にも火を使う動物がいるのは驚きですが、トビは火をコントロールしているわけではないので、深刻な山火事に発展することもあるそうです。それに教育によってはボノボがライターを使って焚き火をしたり、水で火を消したりすることもあるそうです。
このように少ないながらも火を使う生き物はいますし、落雷などで自然に火が発生することもあります。ですが日常的に火を管理して、生活に役立てているのは人間の祖先ホモ・エレクトゥスからだと言われています。
そして日常的な火の使用は、人間の文明に大きな影響を与えました。
牛のような草食動物のお腹はかなり大きいですよね。あの大きなお腹には4つの胃と長い腸が入っています。牛に限らず、草食動物は植物を消化するために、消化器官に莫大なエネルギーを使う必要があります。
肉食動物になれるほどのフィジカルもなかった人間は、昔から摂取エネルギーの大半を植物に依存していました。集団で狩をして、という時代になってからも狩の成功率は低く、草木や果物が大半でした。
するとどうなるか。消化に莫大なエネルギーを必要とするので、脳を発展させることができないんです。
サルの中には、1日5時間咀嚼して、食後は2時間休憩しないといけないものもいます。つまり1日の食事時間が7時間…もしかしたら現生人類の生活は、7時間食べ物を探して7時間かけて咀嚼して、消化のために10時間眠る、みたいなものだったかもしれません。
火で調理することによって、食物は柔らかくなることが多い。すると、消化するのが楽になるので、腸が短くてすむのである。腸が短くなれば、腸を動かすためのエネルギーも少なくてすむ。すると、そのエネルギーを脳に回すことができる。
<中略>
脳はエネルギーを食う期間だし、脳を使って新しいことを試すには時間も必要である。したがって、脳を大きくするには余裕が必要だ。生きるために精一杯で、かつかつの生活をしていては、脳を大きくすることはできない。人類の知能が類人猿のそれを引き離して、より高いレベルに達することができたのは、火のおかげと言っても過言ではないだろう。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
つまり、僕たちは賢いから火を使ったのではなく、火を使って暇ができたから賢くなれたということです。
意識は生存に不可欠ではない
さて、遺伝的、生物学的なアプローチで進化について深ぼる本書ですが、第2部からはテーマが「意識」に切り替わり、より哲学的な問いになってきます。
本書をここまで読んだのであれば、進化とは何か、どういう時に進化が起こるのかを正確に説明できるようになります。その前提があってようやくこの質問ができるわけです。
なぜ意識があるのか?
意識は生存に必要でしょうか?生存に必要なのであれば、自然淘汰によって意識が生まれ、発達していくことは納得できます。ですが、意識がなくても生きていくことは可能です。むしろ、僕たちの命は意識以外の部分で保たれていると言った方が正確でしょう。
意識して心臓を動かしているわけでも、消化しているわけでも、呼吸しているわけでもありません。生命維持活動のほとんどは無意識で行っています。椅子から立ち上がる時にもいちいち「〜〜の筋肉を収縮させ次に重心を〜〜」と考えているわけでもないので、意識的な行動でさえ、実行しているのは無意識だと言えます。
私たちが、生きたいとか死にたくないとか思うのは、意識がなくなるのがいやだからだろう。意識というのは難しい概念だが、一応「意識のある生き物にとって、その生き物であると感じられるもの」つまり「内的な主観的経験」だとして、話を進めよう。
<中略>
つまり、「生きている」と実感するためには、意識があることが重要なのだ。ところが、集中力が高くなって没我の境地に至った状態は、意識がない状態に近いのではないだろうか。
<中略>
集中してピアノを弾いているときも、指の動きを意識していることは、まずないだろう。練習の結果、指が意識から離れて自動的に動くようになっていなければ、難しい曲を弾くことはできない。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
意識は僕たちにとって当たり前で、なくてはならないもので、生死の判定にも使われるものです。それにもかかわらず、生命維持活動が意識的に行われることはほとんどありませんし、何か高度なスキルを身につけるということは、特定のタスクを意識せずにできるようにトレーニングすることでもあるのです。
つまり、生命維持や高度なタスクの実行において、意識はむしろ邪魔だということです。
もし全て意識しないと何もできないなら、眠ることさえできません。寝て意識がなくなれば呼吸も止まって死んでしまうからです。ではなぜ意識が生まれたのでしょうか?
本書ではこの答えを探るために、さまざまな研究データを紹介してくれます。そもそも意識とはなんなのか、どういう状態になれば意識ができたと言えるのか、それに応えるのは簡単ではありません。
例えば、植物状態になった人に対して声をかけると、脳波上では反応しているように見えることがあります。実際、植物状態の関ジャニテニスをしているところを想像するよう言うと、運動を司る脳の領域が活発化し、自宅の中を歩き回っているところを想像するよう言うと、記憶をたどる時に使われる海馬傍回が活性化しました。
つまりこの患者には、体を動かすことで表現できなかっただけで、脳の中には意識らしきものがあったということです。
水槽の脳だったとして何が困る?
さて本書はこの後意識についてさらにふかぼっていきます。意識とは何か、どういう状況で意識は発生するか、意識が発生するためには何が必要か、機械が進歩すれば意識が芽生えるか…これらを一つ一つ時ほぐしていくことで、最終的に最初に書いた「水槽の脳」に辿り着きます。
そのプロセスや結論を要約するのは難しいので、中途半端な気もしますが、この記事はここで終わります。続きが気になる方はぜひ読んでみてください。
僕が本書を読んで感じたことは、「水槽の脳」であることを否定することはできない。そして、僕自身がそもそもヒトでなかったとしても、それを否定することはできないということです。
意識とはそれくらい不思議なものです。植物状態の人にも意識があり、何かを考えたり想像したりできるなら、今キーボードを叩いている僕の行動自体も、実は植物状態、もっと言えば水槽に浮かんだ脳が描いた夢かもしれないからです。
本書は生物学や科学の知見から徐々に哲学の領域に入っていきます。どこまでが科学で、どこからが哲学か、ラインを引くことはできません。本書は、進化について科学的に正確に学べる実用書であると同時に、答えのない問題に直面させられる哲学書でもあるんです。こういう本に出会ったのはかなり久しぶりです。
ということで今回は『禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか』を紹介しました。
最後に、最初の引用をもう一度載せておきます。本書を読んだ後、「確かにそうかも…」と思えることは約束します。同じ気持ちになりたい方はぜひ読んでみてください。
今、あなたは、『禁断の進化史』を読んでくださっている。本当にありがとうございます。でも、それが現実かどうか、実際のところはわかりません。あなたの人生は、ガラス瓶の中に浮かんでいる、ネアンデルタール人の脳が見ている夢に過ぎないかもしれないのです。もちろん、それは著者である私にも、本書をよい方向へ導いてくださったNHK出版の北山健司氏にも言えることですけれど。
引用:禁断の進化史〜人類は本当に「賢い」のか
この記事を書いた人
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かれこれ5年以上、変えることなく維持しているマッシュヘア。
座右の銘は倦むことなかれ。
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