こんにちは。夫です。
今日紹介するのは岡本裕一郎さんの「哲学の世界へようこそ」です。学生向けに書かれた親しみやすい本なので気軽に読んでみたら、、、面白い!「知覚力を磨く」や「13歳からのアート思考」と同じく、大人こそ真剣に読む本だと思いました。
早速一つ質問です。
もちろん、嘘をついてお金を騙す行為は詐欺という犯罪行為ですし、仕事でミスをしたのを正直に言わず隠せば大問題につながります。学校でも社会でも「嘘をつくことは悪いこと」というのはある程度共通認識でしょう。
では、どんな場合でも悪いのでしょうか?例えば、友人が家にきて「殺人者に追いかけられているらからかくまってくれ!」と頼んできたとします。あなたは友人を守るため家でかくまいます。その後、家に殺人者がやってきて「〇〇はいるか?」と聞いてきました。
そんな時も、嘘をつくのは悪いことでしょうか?
多くの人なら、そういう場合であれば嘘をついていいと答えるでしょう。つまり、嘘をついてはいけないという一見常識に見える認識は、時と場合によって変化するのです。であれば私たちが向き合うべきは「どんな時、どの程度であれば嘘をついてもいいのか?」です。
この例は極端ですが、現実の世界ではこうした状況によって変わる判断がたくさんあります。例えば、なぜ20歳未満は飲酒、喫煙してはいけないのでしょうか?成人年齢が引き下げられたのに、飲酒喫煙が可能な年齢は変わっていません。
本当に飲酒や喫煙に禁止すべきほどの害があるなら、そもそもそんなものは大人にも許可すべきではありませんし、販売自体を規制すべきです。
最近、SNSで意図がわからない校則が問題になったり、個人の炎上騒動に対する賛否が渦巻いています。SNSに後悔してしまったイタズラや若気の至り。もちろん中には許されるべきではないものもたくさんありますが、警察や検察、弁護士でもない他人が個人情報を暴いてネットリンチ、私刑を加えて人生を台無しに追い込んでしまう行為は許されるのでしょうか?かなり難しい問題だと思います。
本書の第一部には次のように書かれています。
人生は理不尽の連続だ。<中略>おかしなことには「おかしい!」と反論していい。まず、君たちにこのことを伝えたい。そして、反論するからにはキッパリと根拠を示して批判しなくてはならない、ということも。これは大人も子どもも関係ない、誰かの意見に異議申し立てする上での共通作法のようなものである。重要なのは、「論理的な批判」と「感情的な非難」は別物である、ということだ。相手の意見のどこがおかしいのかを明確にすることは、相手に対する攻撃ではなく、むしろ「誠意」である。
引用:哲学の世界へようこそ
人生は理不尽の連続だと言い切っています。そしてそれはある程度事実でしょう。どうしようもないことに耐えないといけないことも、無関係の他人から見当違いの非難を受けることも、努力と成果が正当に評価されないこともあります。
そんな世界で生きる上で必要なスキルが「考え抜く力」、つまり「論理的な批判」をする能力です。
本書はタイトルに「哲学」と入っていますが、哲学の本というよりは思考法の本です。哲学はまさしく考え抜くことが全てのような学問なので、考えのヒントに使っているだけ。本書は、AIに仕事が奪われることや、友達関係とはなんなのか、LGBTQとの向き合い方など大きな話から、転売やコピペ問題まで、日常にある”モヤモヤ”と考え抜く力で向き合うものです。
それではまず、本書が提唱する考え抜くための 4つのステップを紹介しましょう。本書ではこの4つのステップを武器に、8つの社会・日常の問題に切り込んでいきますが、この記事ではその中から僕がすごく腹落ちできたポイントをいくつかピックアップして紹介します。
考え抜く4つのステップ
今社会で問題になっているのは、答えのない、誰も正解がわからない問題ばかりです。それはSNSを見ればよくわかると思います。みんながみんな、自分なりの正義・正解に基づいて発言するので議論は平行線のまま。ツイッターのリプライでは議論にさえなっていない非難の応酬が繰り広げられています。
おそらく簡単に答えがだせる、唯一の正解があるタイプの問題は、人類の長い歴史の中で過去の偉人・天才たちが解決してきたんです。今残されているのは、もう答えがないもの、人の数だけ正解があるタイプのものばかり。今を生きる僕たちはその事実と向き合っていかないといけません。
そのために必要なのが「考え抜く力」であり、筆者はそのための4つのステップを紹介しています。
ステップ2:根拠に説得力を持たせる(根拠の妥当性を考える)
ステップ3:別の観点から問い直す(より納得できる根拠、反対意見を考える)
ステップ4:使える結論を導き出す(感情ではなく理性に基づいて考える)
例えば、「髪を染めてはいけない」という校則について考えてみましょう。直感的に「その校則はおかしい!」と考えたとします。では、その根拠はなんでしょうか。「個人の自由の問題であり学校側がコントロールすべきではない」という根拠が思い浮かぶかもしれません。
次にその根拠の妥当性を深掘りしましょう。ここで役立つのが過去に「考え抜く力」を追求した人、哲学の偉人たちです。
イギリスの哲学者J.S.ミルは、著書「自由論」の中で「個人が自分自身だけに関することをどのようにしようとも自由だ」と言いました。「自分自身だけに関すること」というのはつまり、他人に迷惑をかけなければという意味です。J.S.ミルは、他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいいと考えたのです。
偉大な哲学者の発言を根拠にすると一気に説得力がましますね。髪を染めたからといってそれ自体が他人の迷惑になるわけではありません。
ですが、これだけだとまだ考え抜くには不十分です。そこで別の角度から考えてみましょう。自由論を引き合いに出すとして、本当に髪を染めることは他人に危害を加えていないと言えるのでしょうか?
理不尽かもしれませんが、一般認識として、髪を染めている高校生を見て「真面目で優秀そうだ」と思う人は少ないでしょう。多くが「ちょっとやんちゃな人だな」と思うと思います。であれば、髪を染めたことで学校そのものの評価が下がったり、友達の親から「あの人と付き合うのはやめなさい」と言われたりするかもしれません。
それは一般認識がよくない!髪の色と真面目さは関係ない!という反論はやめてくださいね。この世界は理不尽なんです。現実として、子どもに真面目に育って欲しい両親は、娘が過半数が金髪の高校に入学すると言い出したら心配するはずです。
ここまできたらあと一歩です。使える結論を導きましょう。最初「髪を染めてはいけない」という校則について「その校則はおかしい!」と考えました。そこからいろいろ調べて考える中で、自由意志などの考えに基づけば、その校則に大した意味がないことがわかります。
しかし一方で、その校則を無視することで他人に迷惑をかける可能性も浮上してきました。
つまり、校則の是非を議論するより「校則に反してまで髪を染めることが、そこまで価値があるのか?」という問いを立てた方が賢明かもしれません。
しかしもし校則が「髪は黒くなくてはいけない」だったら話は変わってきます。生まれつき茶髪の人は、無理やり黒く染める必要があるわけですが、それは先ほど立てた「校則に反してまで髪を染めることが、そこまで価値があるのか?」という問いとは全く違う思考プロセスになります。
「髪を染めてはいけない」と「髪は黒くないといけない」ほとんどの日本人にとっては実質的に同じ校則ですが、その是非を論理的なステップで考えると、全く違う本質、答え、問いが見えてくるはずです。
ある常識やルールに対してどのような態度をとるべきかは、時と場合による。絶対的な答えなどはなく、君はそういう社会で生きていくしかないのだから、戦略的かつ合理的に、よりよく生きるための結論を出さなければならない。
引用:哲学の世界へようこそ
それでは、この4つの考え抜くステップを軸に、現実の社会問題に切り込んでいきましょう。まずは「コピペ」です。
コピペの悪。逆にコピペじゃないものは?
コピペは非常に便利な機能で、学校のレポートもコピペを活用すればすぐに完成します。ところが、多くの学校、課題レポートではコピペが禁止されています。なぜこんなにも便利なコピペは禁止されるのでしょうか?
似たような問題で、試験に計算機やスマホを持ち込んでいい悪いというのもありますね。学生時代は頑張って筆算、途中式を書かないと減点されるのに、社会に出て筆算をしていたら「Excelを使え!」と怒られてしまいます。まさに理不尽…
コピペはダメだという立場であれ、コピペはいいという立場であれ、大事なのはその立場を正当化して、妥当性のある根拠を見つけ出すことです。
ここでもまずは考え抜いた人、哲学者を参考にしましょう。研究者たちの間では、フランスの哲学者パスカルの著書に多くのコピペが含まれていることは有名な話です。パスカルの有名な発言「人間は考える葦である」という言葉は、モンテーニュの考え方と、聖書の比喩の組み合わせです。
コピペの組み合わせだとわかった時、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉の価値は下がるのでしょうか?実際にはそんなことありませんよね。
もっとわかりやすい例をみてみましょう。ディズニーやジブリ作品の多くには”原作”が存在します。いわば、原作をコピペして、独自の解釈を加え、アニメ作品という形に再構築しているんです。ディズニーやジブリ作品の多くがコピペがあるという理由で価値が下がるのでしょうか?
つまりここまでで「単純にコピペそのものが悪いわけではない」と考えることができます。
では次に、そもそもオリジナルとはなにか?を考えてみましょう。
何かについて深く考えるとき、逆の視点で考えると大きな近道になることがあります。幸せについて考える時は、逆に不幸の要因を考える。不幸の要因を取り除けば、そのあと残るのは幸せだという考え方もできます。
課題でAIの最新技術についてレポートを書くことになりました。レポートを書くためにまずはAIについて書かれた本や記事を探すでしょう。そこで学んだことを”まとめて”レポートにすると思います。
つまりここでも、レポートの背景には原作があり、それをコピペ編集していることになります。
問題は、それ以外の方法でレポートを作成することが可能なのか?です。僕たちはインプットしたことを組み合わせてアウトプットするしかありません。完全にゼロから新しい考えを見出すことは、原理的に不可能です。
どんな知識や情報も、それに先立つものを取り入れ、加工することで出来上がった、れっきとした「コピペ」なのだ。先立つものが何もなく、自分一人でゼロからつくり出すことなど、誰にもできはしない。
つまり、奇妙なことではあるのだが、私たちはそもそも、オリジナルをコピペしているわけではなく、コピペされたものをコピペしていたにすぎないのかもしれない。「コピー」と「オリジナル」という概念は、それぞれ独立して成立するものではなく、密接に結びついたものである。
引用:哲学の世界へようこそ
突き詰めて考えれば、そもそもオリジナルなんてものは存在しないのかもしれません。少なくとも、コピペはいい、コピペは悪いと議論するなら、オリジナルとは何かに答える必要があります。作家の小林秀雄は「模倣は独創の母である」という言葉を残しています。模倣、つまりコピーすることなしに、独創することはできない。コピペは禁止すべきものどころか、オリジナル(独創)のために欠かせない要素とさえ言えます。
ここまででコピペは悪ではないという結論にいきそうですが、かといって「なんでもあり」ではないことは直感的にわかるでしょう。コピペも度が過ぎれば一切の独創性がない盗作になり、場合によっては著作権侵害などで罰せられます。
つまりここでコピペはいい、悪いという二元論から「賢い、いいコピペ」と「バカな、悪いコピペ」があるという一段上の議論に移ることができます。ここからさらに、賢い、いいコピペのためには何が必要かを考えていくわけです。
コピペは悪か?と聞かれて「全ての独創は模倣から始まるため、コピペが悪いとは言えません。実際に〜実例を示す〜。つまり、コピペが悪か?ではなく、いいコピペと悪いコピペについて考えるべきです。私が考えるいいコピペとは〜〜であり、悪いコピペは〜〜です。〜〜のようなコピペは禁じるべきでしょう」と回答したらめっちゃかっこいいですね。いい悪いの二元論で話しているのがバカに見えます。
”本当の自分”の正体
さて続いては「個性」について考えてみましょう。個性的であることがなんでも良いとされるような雰囲気さえ感じますが、本当に個性的であることが良いことなのでしょうか?
僕はここまで読んだ段階で「え、さすがに個性的なのは良いことだし、それは否定できないだろう…」と考えていました。でも次の文章を読んで頭を殴られたような衝撃を受けました。
ここに5人の少年がいるとする。Aには盗み癖があり、Bは暴力的、Cはウソつきで、Dは覗き魔、Eは痴漢だ。このとき、「みんなちがって、みんないい」と言えるだろうか。
そんなわけがない、ということは直感的にわかるだろう。実は、「みんなちがって、みんないい」というフレーズには、隠れた前提があるのだ。それを補ってみると、こういう具合になる。つまり、
「みんなちがって(いいものを持っていれば)、みんないい」
引用:哲学の世界へようこそ
コピペにいいコピペと悪いコピペがあるように、個性にもいい個性と悪い個性があって、みんなが「個性的なことはいいことだ」というとき、その個性がいいものであることが暗黙の了解にあるということですね。物事を考え抜く力がないと、こういう隠れた前提を見逃して、好き勝手やって個性的であればなんでもいい、みたいに考えてしまいます。
ではここで質問。あなたは、個性は必要だと思いますか?
ここでも考え抜いた人を参考にしましょう。”言葉”とは必要に応じて生まれ、長い歴史の中で洗練されてきたものです。つまり、語源を探ればヒントが見つかるかもしれません。
「個性」は英語で「パーソナリティ」です。そして「パーソナリティ」は、人を表す「パーソン」の派生系です。パーソンは「他と違い個性のある一個人としての人」という意味です。
そしてこの「パーソン」という言葉は、ラテン語の「ペルソナ」が語源です。ペルソナは劇などで使われる「仮面」を意味する言葉で、そこから派生して「役柄」や「役者」を指すようになりました。
僕はマーケティング職なのでペルソナという言葉をよく使いますが、そこでは「理想的なユーザー像」という意味で使っています。
「個性」という言葉を紐解いていくと、まさかの「仮面」や「役柄」のように”演じる”ニュアンスに辿りつきました。でも「個性」に”演じる”ニュアンスはありません。むしろ、演じない素の自分こそが個性のイメージに近いと思います。つまり、語源と意味が逆転しているんです。
もし一般的なイメージではなく、語源を尊重して個性を解釈すればどうなるでしょうか?
今日「個性」と見なされているものはすべて、「他人に対する演技」として理解すべきものだ。もしも「個性」を「ほんとうの自分」と表現するのであれば、「ほんとうの自分」とは「演技された自分」のことである。
たとえば、君が朝起きて親と話すとき、「子どものペルソナ」を演じるだろう。通学のために電車に乗れば「乗客のペルソナ」を、学校で授業を聞くときには「学生のペルソナ」を演じ、友だちや恋人には、それに応じたペルソナを演じることになる。学校の先生だって同じだ。「教師のペルソナ」を演じているに過ぎない。彼らが教師であるのは、彼らが教師のペルソナを演じているからである。
引用:哲学の世界へようこそ
個性の話をしていたのに、他人に対する演技の話になってしまいました。ですが、この引用部分を否定することはできません。確かに、僕も付き合う人や状況によってキャラクターが変わります。妻がみた僕と、会社の同僚が見た僕は、別人のような印象になると思いますが、どちらも”自分”であり、”個性”です。
しかしこの考え方は直感に反します。そんなペルソナ(仮面)は脱ぎ捨てて、ほんとうの自分に出会いたいと思うのが人情でしょう。では、優等生のペルソナの子どもがその仮面を脱ぎ捨てて、学校にも行かず家出したとします。これで優等生のペルソナは脱ぎ捨てられましたが、その後にあるのがほんとうの自分なのでしょうか?
そんなわけありませんよね。学校にも行かず家出したら、優等生のペルソナから「反抗的なペルソナ」に変わるだけです。ペルソナを変えることはできても、ペルソナそのものを捨てることはできないんです。
であれば、ほんとうの自分はペルソナを脱ぎ捨てたところにあるのではなく、自分が選ぶペルソナこそが自分らしさ、つまり個性であると考えた方が賢明でしょう。
「テセウスの船」という有名な思考実験があります。ある船の古くなった部品を取り替えていき、徐々に新しい部品の割合が増え、最終的には全ての部品が元の船とは違うものになる。それでもその船は最初の船と同じものだと言えるのか?という問題です。
この問題は結構複雑です。全部の部品が入れ替わったということは、取り替えられた古い部品を組み合わせたらもう一つの船ができることになります。イメージ的にはその船こそ元のテセウスの船のような気がします。ということは全部取り替えられた後の船は、テセウスの船ではないのでしょうか?だとしたらその境目はどこにあるのでしょうか?一つの部品を取り替えただけで、その一つの部品だけをテセウスの船だとは思わないように、どこかに境目があるはずです。
これは人間にも言えるもので、僕たちの体は分子的には数ヶ月で入れ替わります。細胞はもっと長く、生まれてからずっと体内に残るものもありますが、それを構築する分子は常に入れ替わっているので、1年も経てば分子レベルで全く別の物質になるんです。
では何が自分を自分たらしめているのか。その答えを、フランスの哲学者フーコーは「アイデンティティ・カード(身分証明書)」に求めました。「アイデンティティ」とは同一性のことであり、分子レベルでは日々入れ替わる僕たちを、僕たちだと定義づけるものです。
どんどん話が複雑になってきましたが、もう一つの考えるヒントが、哲学者ドゥルーズが提唱した「分人」という概念です。これは、本来分割できない「個人(individual=語源は”分けることができない”)」は、実際にはさまざまに分割され、その時々によって性質が変わるというものです。
インスタグラムとツイッターではキャラが違う人も多いですし、まさにペルソナの考え方ですね。Amazonにお勧めされたものをつい買ってしまうのはアルゴリズムにコントロールされた哀れな行為なのか?それとも、単に数ある分人の中の一人の行為に過ぎないのか。アルゴリズムを完全に無視するという現代では不自由な生き方を選択するより、分人という考え方を受け入れた方が生きやすそうです。
まず、ハッキリしているのは、他人と異なる「自分だけの個性」なんてものはない、ということだ。個性など幻想にすぎない。「ほんとうの自分」なんてものはそもそもなく、人間関係や状況に応じて常に変化するのである。
引用:哲学の世界へようこそ
男男・男女・女女の恋愛観
LGBTQや性的マイノリティ、性的多様性という言葉も一般的になりましたが、ほんの半世紀前まで、同性愛は多くの国で法的に禁止されていました。法的に禁止されていたものから、おおらかに認め合うものに急激に変わった影響か、最近はLTBTQに関する発言が炎上する例も増えてきています。
この問題は本当に難しいですよね。この記事を書いている2023年3月ごろ、LGBT理解増進法案が大きな話題になっていますが、反対派賛成派、その間にあるグラデーションな意見。どれもわかるし、わからない。こんな時こそ「考え抜く力」の出番です。
(あなたがLGBTQではなく、いわゆるノーマルだとして)想像してみてください。同性の友だちから告白されたらどうしますか?
好きな異性から、「あなたのことが好き!」と告白されたら、おそらく誰でも有頂天になる。それほど好きではない相手であったとしても、異性からモテること自体、気分としては悪くないだろう。
しかし、なぜか相手が同性になった途端に事情は変わる。<中略>同性の親友から告白されたら、気持ち悪いと思うだろうか。それとも相手の好意を受け入れ、付き合ってみようと思うだろうか。
これは君が、「同性愛を認めるかどうか」という問題にも関わってくる。
引用:哲学の世界へようこそ
LGBTQへの理解が進んできたとはいえ、実際に自分がこの状況の当事者になった時まで想像できている人は少ないと思います。同性愛について考えるには、そもそも愛とはなんなのか、ちゃんと考える必要がありそうです。
最近はあまり聞かなくなりましたが、肉体的欲求を離れた、精神的な愛を表す「プラトニックラブ」という言葉がありました。プラトニックとは哲学者のことで、プラトニックラブは「プラトン的な愛」のことです。
そのプラトンは著書「饗宴」の中で、人間誕生にまつわる神話としてこんな話をしています。
昔、人間の姿は今とは違い、いわば二人の人間が合体したような形をしていた。そのとき、合体の仕方によって3種類の人間が存在した。そのとき、合体の仕方によって3種類の人間が存在した。一つ目は「男=男族」、二つ目は「女=女族」、三つ目は「男=女族」である。しかし、3種類の人間はとても傲慢で、神に逆らっていた。怒った神はついに、人間たちを真っ二つに割ってしまった。こうして現在の2種類の人間、つまり「男」と「女」が出来上がったのである。
アリストパネスによれば、切断されてバラバラになった人間は、かつて合体していたもう一方の片割れを探し求めるという。この憧れこそが「エロース(愛)」である。
引用:哲学の世界へようこそ
つまり、プラトンの時代、恋愛のパターンは男女間だけでなく、男性同士、女性同士も想定されていたということです。そしてプラトンは男女の愛は動物にも可能なもので、同性同士の愛こそ最も人間らしく、高尚であると考えました。
つまり、同性愛を認めようという考え方は今に始まったものではないんです。中世になるとキリスト教の価値観が強くなり、その流れで法的にも禁止する国がありましたが、歴史を振り返れば同性愛も一つの愛の形として長く受け入れられていたんです。
同性愛は今に始まったものではない。ここまで理解したところで、別の角度から考えてみましょう。
そもそも「性」には2種類の言葉があります。それが「セックス(生物学的な性)」と「ジェンダー(社会的な性)」です。フランスの哲学者ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉を残していますが、ここでいう「女」はジェンダーを表しています。セックスとしての性は生まれたときに確定しているが、その後社会的に役割などによって女というジェンダーが形作られていくということです。
そんなジェンダーについて考えたのが哲学者フロイトです。プラトンは、男と女が合体した元の人間を「両性具有」と呼びました。そしてフロイトは、両性具有という特質は全ての人間に当てはまる、と考えたのです。
つまり、100%男性、100%女性という性ではなく、例えば96%男性で4%女性、みたいに男性の中に女性らしさが少しある。その割合がグラデーションのように変わっていて、どちらかに偏っていたらいわゆる”男らしい・女らしい”人で、両方のバランスが拮抗していたらトランスジェンダーやバイセクシュアルになるということですね。
また、哲学者のドゥルーズとガタリはさらに踏み込んで「n個の性」という考え方をしました。人の数だけ性の形はさまざまだという考え方で、ここまでくると恋愛対象が人間である必要さえありません。アニメのキャラクターが好きな人も、プログラミングやデザイン、ゲームに熱中する人も、音楽やアートに熱中する人も、これらの欲望のあり方全てが「恋愛」と言っていいのではないか、と考えられるのです。
そもそもプラトン以前のギリシャ哲学者エンペドクレスは「愛」という概念を、元素となる物質同士を結びつける自然界の原理で捉えました。逆に物質同士を引き離す力は憎しみです。
この発想は、「愛」を人間関係で働くものとして考えがちな私たちには、なかなか理解し難いかもしれない。それでもなお、この考え方は、「愛」を人間同士の関係から解き放すときに有効なヒントを与えてくれるように思われる。
「愛」は人間の異性間に限定されないし、同性間であってもなんら問題ない。それどころか、「人間」にも限定されない。最近、声高に叫ばれるダイバーシティ(多様性)の理想系は、こういう形を言うのではなかろうか。
引用:哲学の世界へようこそ
哲学の世界を覗くと、同性愛が変わったものや特別なものではなく、自然界や神話の中に当たり前に存在していたことがわかります。また、性や恋愛には相手を人間にさえ限らないより自由な考え方もあります。
つまり、同性愛にかぎらずあらゆる性的指向そのものには、いいも悪いもないと言うことです。時代によって趨勢が変わるというだけで、ギリシャの賢人たちの間では同性愛こそ至高と考えられていた時代もあるのです。
ただし、恋愛が成立するためには、性的指向の一致や互いの合意があって初めて成立します。相手には相手の性と欲望があるように、自分には自分の性と欲望があります。
最初の質問「同性の友達に告白されたらどうするか?」については、異性から告白されたときと同じように、自分の性と欲望で考えて返答すればOKです。「n個の性」という考え方を受け入れれば、告白してきた相手の性別にはなんの意味もないことがわかります。
不用品をメルカリで売るのは”賢い”、チケット転売は”悪い”
本書では他にも色々なテーマについて考えていますが、この記事では最後に「転売」を考えたいと思います。
妻はメルカリを多様しています。読まなくなった本、使わなくなった小さな家電などはよくメルカリに出品していますし、最近は僕にメルカリで買ったエコバックをプレゼントしてくれました。新品なのに定価より安かったんだそうです。
フリマアプリの登場によって転売はより身近に、また難しい問題になりました。
チケット転売は法律で規制された行為です。ただし、行きたくても急用で行けなくなってしまったときに定価より少し安い価格で”転売”しても罪にはなりません。また、メルカリではトイレットペーパーの芯が転売されているそうです。夏休みの工作の材料として使えるから需要があるそうですが、常識的にも、トイレットペーパーのメーカーもゴミと捉えているであろうものに値段をつけて売ることは罪になりません。
ここまでの議論がそうであったように、転売そのものが悪いわけではなく、いい転売と悪い転売があるだけです。では問題は、どこまでがいい転売で、どこからが悪い転売なのかです。
卸売業は全て、メーカーから仕入れて利益を乗せて売る転売ビジネスです。セレクトショップも、古着屋、リサイクルショップも、全部転売ビジネスと言えるでしょう。家の中にある使っていないもの。処分するにはコストがかかってしまうがメルカリで売れば利益になるものはいくらでもあるでしょう。
そもそも転売とは商売の基本です。「安く仕入れて高く売る」というのは商売の原則ですし、高く売るときにつける付加価値はさまざまです。東京の古着屋でしかおいていない服も、メルカリで販売すれば日本全国の人が手に入れることができます。これは明らかな付加価値でしょう。
東京の古着屋にしかない1万円のジーンズを買うために、交通費3万円必要な地方の人のため、メルカリでそのジーンズを1万5千円で売ることは何か問題があるでしょうか?
そもそも資本主義、自由主義経済は、あらゆるものが商品となり、売買可能な仕組みです。売買可能ということは、当然転売もあり。突き詰めれば、石油などの天然資源も、最初からあるものを掘り起こして転売しているだけです。つまり、資本主義社会においてなんらかの形でモノを仕入れ、付加価値を加えて高く売ることはなんの問題もありません。
ではなぜ、非難される転売が存在するのでしょう?
その理由はもしかしたら「価格設定」にあるのかもしれません。どうしても行けなくなったライブチケットを定価以下で販売してもそこまで非難されないでしょう。でも、人気ライブのチケットを買い占めて5倍の値段で転売したら、猛烈な非難を浴びるはずです。
資本主義において、価格は2つの要因で決まります。一つは、売り手と買い手が共に自由な状況において、互いの合意に基づく価格。もう一つは、需要と供給のバランスです。
ではこの二つを前提に、先ほどのライブチケットの例を考えてみましょう。
もし、君が人気アイドルのコンサートチケットをどうしても手に入れたくて、転売サイトを見たとする。当然、彼らには需要があるので、正規の値段よりもはるかに高い価格設定がなされる。これが、人気のないアイドルのコンサートであれば価格はもっと安いだろうし、むしろ売れ残るかもしれない。その場合は、正規の価格どころか売りさばくためにディスカウントされる可能性さえある。
このように「市場の原理(需給のバランス)」に従って価格が決まり、高く売りたい出品者と、高くても買いたいという購入者、自由意志に従い、同意の上で購入ボタンを押す。
どうだろう。これぞまさに、資本主義の原則にのっとった取引とは言えないか?
引用:哲学の世界へようこそ
あれ、確かにこう言われると、チケットの高額転売を非難する根拠が見えなくなってきました…そもそも最初の販売の時点で、人気アイドルのチケット(需要がある)とあまり人気がないアイドルのチケット(需要がない)では値段設定が全然違います。需給とそれに同意した人の間で取引されるなら、なんの問題もないように思えます。
さらに一歩踏み込んで、自分自身を商品に取引するケースを考えてみましょう。難しくはありません。僕たちは日々、自分たちの労働力を商品に、給料という対価を受け取っています。自分が希少性と必要性が高い人材になれば(需要に対して供給が少ない)、会社と自分との合意によって価格(給料)を引き上げることができます。
ですがもっとわかりやすく、パパ活のような形で自分を商品にする場合を考えてみましょう。女性の中には、居酒屋やコンビニで長時間アルバイトするより、パパ活のほうが効率的に稼げる人も少なくないでしょう。パパ活は労働力の転売として、許されるのでしょうか?
もちろんこれも、資本主義の原理に基づき、自分という商品の価値を最大限に利用し、最大限の利益を得るという点では、通常の仕事となんら変わりません。
自由意志に基づいて、両者の合意によって、需給バランスによって決められた価格で、労働力が取引される。考えれば考えるほど、資本主義社会においてパパ活を非難することはできないような気がしてきます…
資本主義を生きていく限り、私たちは「転売の原理は否定できない」ことを認めなくてはならない。
しかし、転売は、たしかに不当に思える利益を生み出すし、過剰な利益の偏りや搾取を招くことがある。自由な取引と競争を前提とする資本主義は、そのメカニズム上「格差」を産むことは避けられず、しかも、自分自身ではその問題を解決することができない。
それでも資本主義のルールで突き進むのか、なんらかのルールを追加することで歯止めを効かせるのか。本当に問われているのは、コレなのだ。
引用:哲学の世界へようこそ
答えがない問題に立ち向かう
ということで今回は「哲学の世界へようこそ」を紹介しました。
本書では、考え抜く力を発揮するための4つのステップを使い、今もまさにSNSで議論とも言えない罵詈雑言が繰り広げられているさまざまな社会問題に切り込んでいきました。
面白いのは、本書では「答え」や「正解」をほとんど提示しないことです。いろんな角度から考えて、最終的には「本当の問題はコレだ」という次の問題提起で終わります。そして、答えがない時代に生きるためには、それこそが大切なんだと思います。
最初に書いたように、唯一の正解がある、明確な、誰もが納得できる答えが存在するような、簡単な問題はすでにほとんど解決されてしまいました。今を生きる僕たちに残されているのは、何千年という文明の中で誰も正解が導き出せなかった、そもそも正解が存在しない、人の数だけ違う正解がある、そんな難題ばかりです。
本書では今回紹介した以外の問題も取り扱っていますが、そのほとんどが次の質問で終わります。「最初にこういう問いを立てたけど、いろいろな角度から考えを深めていくと、本当に考える問題は別にある」という着地です。
正しい答えを求めるのではなく、正しい問いを求める。それこそ、正解がない問題の正解に辿り着く唯一の方法なんだと思います。
この記事を書いた人
-
かれこれ5年以上、変えることなく維持しているマッシュヘア。
座右の銘は倦むことなかれ。
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