実力も運のうち|平等・多様性の現代でますます深まる「能力主義」という差別

実力も運のうち|平等・多様性の現代でますます深まる「能力主義」という差別 自己啓発
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こんにちは。夫です。

夫

最近は1、2時間で読める軽い本を読むことが多かったのですが、今日は久しぶりにヘビーな哲学・思想本を読みました。コロナ禍も相まって2021年に大ヒット、マイケル・サンデル教授の「実力も運のうち」です。

マイケル・サンデル教授の本はこれまでの度々ベストセラーになってきましたが、最も日本で話題になったのは、本書「実力も運のうち」だと思います。その理由は、コロナ禍でしょう。ここ数年、サンデル教授が説いた「能力主義」の闇が明らかになりました。

エッセンシャルワーカーと呼ばれる人が、命の危険を冒してでも社会を動かすために低賃金で働く一方、資産家たちは何も生産せず、株高の恩恵を受けてより豊かになりました。コロナ禍でエッセンシャルワーカーほど厳しい状況に置かれたのは、能力が低かったからなのでしょうか?資産家たちがより豊かになったのは、彼らの能力が高かったからなのでしょうか?

夫

僕たちは漠然と能力主義はいいものだ、人は生まれや人種、性別などではなく、能力によって評価されるべきだと考え、それが良いことだと思っています。でも確かに、ここ数年で一般にも、明らかに能力と釣り合っていない不平等が生まれるのを目にしました。

マイケル・サンデル教授は「能力主義」は人種差別や性差別などと同じく、差別なのだと言います。それも、人種差別などを批難する人たちが積極的に容認している、誰も逃れられない強烈な差別なのだと。

夫

でも、その人が努力して能力を身につけたなら、その分報われるのはそれで良い気がします。少なくとも生まれ持った性質によって発生する差別より100倍マシでしょう。しかし問題は、努力して身につけた能力と思われているものも、実は生まれ持った性質とほとんど同じ…そんな側面があることです。

なぜ努力して身につけた能力が、人種や性別と同じく、生まれ持った性質なのか。平等を目指す人たちがなぜより大きな格差を容認してしまうのか。

それについては少し後で紹介するとして、まずは本書でも投げかけられている「3つの問い」について考えてみてください。この3つの問いと真剣に向き合うだけで、能力主義を疑うには十分だと思います。

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能力主義に関わる3つの問い

iPhone欲しさに腎臓を売った貧しい子どもの行為は許されるか?

実際にあった話で、中国の貧しい農村に住む10代の人物が、iPhoneとiPadを買うために、富豪に腎臓を売却しました。これは許される行為でしょうか?許されるとしたらなぜ許され、許されないとしたら、何がダメなのでしょう?

夫

少年が欲しいものを手に入れるため、提供できるものを差し出す。本質的には僕たちが時間や能力を差し出して得たお金と引き換えに買い物するのとなんら変わりません。しかし、感情的には簡単に納得できるものではありませんね。

マイケル・サンデル教授は実際に中国の大学の講義でこの質問を投げかけたそうです。その時、大きく3つの意見がありました。

  • その人が圧力や強制を受けたわけではなく、自由意志によって腎臓の売却に同意したのであれば、彼にはその権利がある。
  • 富める者が貧しい者から腎臓を買って命を長らえるのは公正ではない。
  • 裕福な人は自分で富を築いたのだから報酬を受け取る資格があり、したがって報酬によって寿命を買うことに問題はない。

論点は「命」くらいしか差し出すことができない人は、命を差し出しても良いのか。そして命を買うことができる富を持つ人は、その富で命を買っても良いのか。この2つだと思います。

能力主義の立場にたてば、その子どもには腎臓を差し出す能力があり、その富豪には腎臓を買い取るお金(とそのお金を築き上げた能力)があるから問題はない、となるでしょう。あなたはどの立場に共感しますか?

夫

僕は正直、色々考えた結果、能力主義の立場でした。もちろん腎臓売買などが法律で規制されている場合はNoです。しかしそうした規制がない場合、子どもの自由意志を制限するのも、能力によって築き上げた富の使い道を制限するのも、どちらも違和感があったからです。

大学のレガシー枠は必要か?

本書の冒頭はアメリカの不正入試の話で始まります。数年前、連邦検事が不正入試に関わった数十人の裕福な親を起訴し、大きな事件になりました。起訴された親の中にハリウッドスターなど平等を訴えかける有名人が何人もいたからです。

この事件についてトランプ元大統領の娘ラーラ・トランプは次のように語りました。

こうした(不正入試に関わった)人たちが誰なのかを見てください。ハリウッドのエリートたち、リベラル派のエリートたちです。彼らは日常から万人の平等について語り、誰もが公平なチャンスを手にすべきだと言っていました。ここに見られるのは何よりも大きな偽善です。彼らは小切手を使って不正を働き、子どもをこれらの大学に入れようとしました。
引用:実力も運のうち P19

夫

もちろん不正入試は許されることではありません。しかしそれは単純に「不正」である、つまり決められたルールを逸脱しているからです。この事件では、サッカーなどしていない人に架空の履歴書を作り、サッカー選手枠として受けさせたり、SATの得点操作を行ったりしていたので、明らかなルール違反です。

では、ルールで認められた範囲であればどうでしょうか?

わかりやすい例がレガシー枠です。アメリカの名門大学にはレガシー枠という、親が卒業生だった場合に用意された枠があります。つまり、親が名門大学出身というだけで、他の学生より有利な条件で受験できるのです。他にも親が多額の寄付金をしたときに設けられる枠も、公式・非公式に存在しています。

能力主義の立場にたっても、いくつかの考え方ができます。
一つは「レガシー枠は必要ない!親の能力ではなく、本人の能力によってのみ選考されるべきだ!」というもの。一見すると真っ当に聞こえます。

しかし一方で、同じ能力主義の立場にたちながらレガシー枠の必要性を考えることもできます。というのも、レガシー枠や寄付枠があることによって、大学の設備が整ったり、低所得層向けに学費を免除したりできる側面もあるからです。もし大学が寄付を一切受け付けないなら、学費はさらに跳ね上がり、低所得層から進学することは本人の能力にかかわらず、無理になってしまいます。
さらに極端な能力主義の立場であれば、その親は自分の能力で富を築いたのだから、寄付金など対価を支払うことで子どもの学位を買うことは正当化される、という考え方もあるでしょう。

夫

僕は直感的にレガシー枠なんてなくていいだろ、と思ったのですが、確かになくすことで学費が高くなり、より本人の能力より家庭の経済力の重要性が高まってしまう側面もある。これは難しい…あなたはどう思いますか?

能力が認められる社会とあらかじめ立場が決まった社会、どっちを選ぶ?

次の問いは少し哲学的です。2つの世界があった時、あなたはどちらを選びますか?
1つはあらかじめ階級が固定された社会。上位の富裕層が富を独占し、優雅に暮らしています。下位の貧困層は生きてはいけるものの贅沢な暮らしはできません。そしてこの階級は固定なので、本人の努力や能力によって下位から上位にいくことも、逆もありません。
もう1つの世界も上位の富裕層と下位の貧困層がいる点では同じです。しかしこちらの世界では本人の努力や能力によって立場が決まります。能力があれば上位に行けるし、能力がなければ下位にいきます。

あなたならどっちの世界を選びますか?

夫

事前にどっちに行けるのかわかっているなら話は違いますが、おそらくほとんどの人が後者、能力が認められる方を選ぶのではないでしょうか?僕もそうです。

では、あらかじめ自分が下位の貧困層にいくことが決まっていたらどうでしょう?

「いやいや、貧困層にいくことが決まっていたら、当然能力によってよじ登れる可能性がある後者を選ぶでしょ」と思ったかもしれません。でも、後者の世界において、もし上位に登りつめる、つまり成功できなければ、すべての自分の能力に責任があることになります。
つまりどれほど努力しても報われるかわからない中、結果の責任を自分が背負い、上位に行けるまで努力し続けないといけない、ということです。
一方、前者の世界なら最初から諦めることができます。努力することも、能力が伸びないことにストレスを抱えることもなく、貧しいながらもそれなりの生活をのんびり過ごすことができます。

夫

確かにそう考えると、どっちが幸せなのか一概に言えませんね。上位の富裕層にしても同じです。後者であれば勝ち取った勝利の感覚、自分の能力に対する自信がもてますが、前者だとただ決まっていた立場にいるだけなので特別な感情はないでしょう。

この3つの問い、あなたはどう考えましたか?
僕は1つ目の腎臓の話であれば「腎臓を売る権利はあるし、買う権利もある」と考えました。2つ目のレガシー枠については「レガシー枠をキッパリ設けて、その他の部分で学費を下げるなどして本人の能力が正当に評価されるようにする」のが僕の中で納得できる方法です。レガシー枠によって低所得者も学費を免除され高いレベルの教育を受けることができるならそれに越したことはありません。
でもはやり自分の能力で入学したのか、親の能力で入学したのかは区別して欲しいと思います。しかしその区別が大きくなれば富裕層の親は多額の寄付金を出してまで入学させるメリットを感じなくなるかもしれません。「この人は自分の能力ではなく親の能力で入学した」と分かってしまうからです。バランスが難しいですね。

3つ目の2つの世界については、やはり後者です。後悔することになっても、自分の能力によって立場を掴み取りたいと考えました。

夫

しかしどれもすんなり腑に落ちているわけではありません。腎臓の話であれば、腎臓を売った子どもは決して本人の能力が低かったからお金がなかったのではないはずです。腎臓を買った富豪はもしかしたら宝くじが当たっただけかもしれません。だったら、買う権利・売る権利は一体何によってもたらされたのでしょう?本人の能力だけではないはずです。

この3つの問いと真剣に向き合えば誰もがぶつかるであろう気持ち悪さ。その正体こそ、マイケル・サンデル教授が本書のタイトルにしている「実力も運のうち」という、能力主義の闇です。

夫

本書ではさまざまな研究、思考から能力主義の闇を暴いていきます。それに対する解決策もいくつか紹介されていきますが、この記事では主に能力主義の闇の部分と、それを加速させる選別機関となった教育について紹介したいと思います。能力主義の闇に対する解決策については、ぜひ本書を手に取ってみてください。

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60年前に予測された能力主義(メリトクラシー)の闇

僕たちの社会、とくにマイケル・サンデル教授がいるアメリカでは能力主義は良いものだとされています。報酬や立場はその人の能力によって決まるべきであって、人種や性別によって決められて良いものではない。この考えはいわゆるリベラル派、万人の平等や自由を説く人の間で浸透していますし、多くの方がある程度納得できるものだと思います。

夫

昔は黒人というだけでバスで座れなかったり、白人に列を譲ったりしないといけませんでした。女性が就けない仕事もいろいろありました。その時代と比べると、能力さえあればどんどん評価される社会は、ものすごくよくなったように見えます。

しかし本書では60年以上前の社会学者のマイケル・ヤングの言葉を借りて、能力主義(メリトクラシー)の闇に触れています。

いつの日か階級間の障壁が乗り越えられて、誰もが自分自身の能力だけに基づいて出世する真に平等な機会を手にしたとしたら、何が起こるだろうか?
ある面で、これは祝福すべき事態だろう。ついに、労働者階級の子供が特権階級の子供と肩を並べ、後世に競い合うことになるのだ。ところが、それは純然たる勝利ではないとヤングは考えた。というのも、勝者の中にはおごりを、敗者のあいだには屈辱を育まずにはおかないからだ。勝者は自分達の成功を「自分自身の能力、自分自身の努力、自分自身の優れた業績への報酬にすぎない」と考え、したがって、自分より成功していない人々を見下すことだろう。出世できなかった人々は、責任は全て自分にあると感じるはずだ。
引用:実力も運のうち P47

つまり能力主義は人種差別などを乗り越えて目指すべき理想ではなく、社会的軋轢を招く原因だというのです。

これは先ほどの3つ目の問い、富裕層と貧困層がいる2つの世界の例で考えるとイメージしやすいかもしれません。
富裕層と貧困層が能力によって生まれるなら、貧困層には能力がなく、富裕層には能力があるということになります。つまり貧困層は能力のない怠け者で、自らの責任で貧困層であり続けている、富裕層には能力があり、自らの責任で富裕層の地位を得たということです。

完全な能力主義が実現したとき、富裕層は貧困層に手を貸すでしょうか?

富裕層が社会貢献や寄付にリソースを割くのはある程度当たり前という認識がありますが、それは社会が完全な能力主義ではなく、生まれなど能力以外の要素で格差が生まれていることを自覚しているからだと思います。

なのでおそらく、完全に能力100%で決まる社会になれば、富裕層は貧困層に手を貸さなくなると思います。自己責任でその立場にいる人に、手を貸す理由がないからです。

成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対するふさわしさだ。私が収入は富、権力や名声といった現世の資産の少なからぬ割合を自らの力で手にしたとすれば、私はそれらにふさわしいに違いない。成功は美徳の印なのだ。私の豊かさは私が当然受けるべきものなのである。
引用:実力も運のうち P89

夫

こう書かれるとなんだか成功者が嫌なやつみたいに聞こえますが、成功哲学、自己啓発は基本的にこのスタンスですよね。僕の根本哲学の一つに「原因自分論」というものがあります。良いことも悪いことも、全部自分の責任。自分でなんとかする、という考え方で、成功哲学ではよく言われることです。

確かに完全な能力主義は、ディストピアかもしれません。全てが自分次第、うまくいってもいかなくても、他人や社会の責任にすることはできません。下位層の人は屈辱にまみれ、上位層の人は傲慢に振る舞うでしょう。そうした振る舞いを非難することもできません。

現代はそこまで強烈な能力主義ではありませんが、流れとしては能力主義が加速しています。「全ての人にチャンスを」「Yes We Can(オバマ元大統領の演説、我々ならできる)」は美しいスローガンですが、行き着く先はマイケル・ヤングが60年前に構想したディストピアかもしれません。

夫

それでも、人種や性別などによって差別されるよりは能力によって差別される方がまだマシだ、と思う人の方が多いでしょう。では、その能力は本当に本人の努力によるものなのでしょうか?つまり、能力主義が掲げる能力は、本当に平等なものなのか。人種や性別と同じく、生まれ持ったものではないのか?という疑問です。

容認されている最後の偏見

能力主義の「能力」が何を指しているのかは議論がありますが、わかりやすい指標の一つが学歴です。前半でハリウッドスターなどが子どもを一流大学に不正入学させようとしたという話をしましたが、そうした例は少なくありません。政治家、大統領クラスまでも、自分の学歴を偽ったり、誇張したりすることが珍しくないそうです。アメリカではそれほど、能力と学歴が密接に絡んでいるということです。

人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ。欧米では、学歴が低い人々への軽視は、その他の恵まれない状況にある集団への偏見と比較して非常に目立つか、少なくとも容易に認められるのである。
引用:実力も運のうち P141

夫

マイケル・サンデル教授は学歴について「容認されている最後の偏見」と表現しました。真に能力主義の立場をとれば、学歴が実際に能力を表しているなら問題はないように思えます。子どもの頃から努力を続け、能力を高め、一流大学に入学する。卒業後は自らの努力で身につけた能力によって社会で評価される。これなら納得できる人は多いですよね。

しかし問題は、学歴が能力の選別装置として機能していないことです。不正入試などは極端な例ですが、実質的に学歴はお金で買えてしまう。つまり、昔は白人男性に生まれただけで自由な人生が約束されていたように、今はお金持ちの家に生まれるだけで高い学歴と報酬が約束されているようなもの。能力主義が歌う平等は、本質的に人種差別と変わらない、別の形での差別を容認しているだけだというのです。

大学進学によって経済状況の見通しが明るくなるのは事実であるものの、アメリカの大学が所得階層を上げることのできる学生の数は驚くほど少ない。大学を卒業していれば、ことにそれが一流大学であれば、高収入の職を見つける際に大きな強みとなるのは確かだ。しかし、そうした大学は社会的上昇移動にはほとんど影響を与えない。一流大学の学生の大半が、そもそも裕福だからだ。アメリカの高等教育は、ほとんどの人がビルの最上階から乗り込むエレベーターのようなものである。
引用:実力も運のうち P244

本書ではさまざまなデータを出して、この引用部分が事実であることを伝えてくれます。所得が下位の家庭から一流大学に入り、出世し、所得上位にのしあがる例は非常に少なく、実際には所得上位の家庭から一流大学に入り、所得上位であり続けているのです。

夫

確かに一流大学にいくには、家庭教師がついたり、受験コンサルタントを雇ったり、めちゃくちゃお金がかかります。良し悪しはともかくレガシー枠や寄付枠もあります。一流大学を出れば所得上位になれる確率が高いのは事実ですが、そもそも一流大学に行けるのは所得上位の人がほとんどなのです。

貧困層を脱して富裕層へとよじ登ることも、社会的上昇への一般的な信念が示唆するほど容易ではない。貧しい生まれのアメリカ人のうち、頂点まで登り詰める人はほとんどいない。実のところ、ほとんどが中流階級にすら届かない。社会的上昇の研究では、所得レベルを五段階に分けるのが普通だ。最低の階層に生まれた人のうち、最高の階層まで上昇するのは4~7%ほどにすぎない。中間以上の階層に達する人もわずか3分の1程度だ。厳密な数字は調査ごとに異なるものの、アメリカンドリームにおいて賞賛される「立身出世」の物語を実現する人は、極めて限られている。
引用:実力も運のうち P113

能力主義を謳うリベラル派は、教育格差を無くせば、教育の機会を平等にすれば、社会問題や格差は是正されると考えています。しかしそれは、正当な教育を受けられなかった人たちを見捨てる立場になります。本書では大学進学の有無や大学のレベルによる収入格差は、本人の能力以上に親の収入、つまり生まれ持った性質によるものが大きいと言います。

グローバリゼーションの時代のご褒美は、控えめに言っても不平等に与えられてきた。197 0年代後半以降、アメリカでは国民の利子収入の大半が上位10%の人々の懐に入っているいっぽう、下位半分の人々はほぼ一銭も手にできなかった。労働年齢の男性の収入中央値は約3万6000ドルだが、これは実質的には40年前よりも少ない金額だ。こんにち、最も裕福な1%のアメリカ人の収入の合計は、下位半分のアメリカ人の収入を全て合わせたものよりも多い。
引用:実力も運のうち P36

夫

日本と違ってアメリカの平均年収はどんどん上がっています。でも中央値でみると40年でほとんど変わっていない、インフレなどを考慮すると、実質的には減っている、というのは驚きです。

これは別のブログで見つけた画像ですが、所得区分別の年収の成長率を表したものです。1970年代はそれぞれの所得区分で同じくらい収入が伸びていました。しかしそれ以降の40年あまりは、所得区分の人の方がより大きく収入が伸びているということがわかります。

こちらは年収推移を所得区分別に表したものですが、確かに下位層の年収は4、50年でほとんど変化していないことがわかります。2006年ごろをピークに減っていますが、リーマンショックの影響でしょう。おそらく2022年までのデータを見れば、この差はより大きく開いているはずです。

運次第の能力主義と戦うか?適応するか?

ということで今回はマイケル・サンデル教授の「実力も運のうち」を紹介しました。

夫

内容が難しいですし、思想的なのでうまく紹介できたとは思いませんが、それでも僕の中に残しておきたいと思ったことは記事の中に残すことができました。400ページ近い本書を読んで、マイケル・サンデル教授の主張が最も強く表れているのは、次の一文だと思います。

能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを登る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の感覚がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ
引用:実力も運のうち P180

マイケル・サンデル教授が本書で伝えたかったことは、能力主義がそんなに綺麗なものではない、一見能力主義のように見える制度でも、実態は違う、人種や性別と同じく生まれ持ったもの、つまり運の要素が強い、ということです。

夫

エリートと言われる人ほどこの主張を受け入れるのは難しいでしょう。自分達がこれまで行ってきた努力も、身につけた能力によって得た立場や成果、報酬も、突き詰めれば運次第だということです。

世界一の投資家と呼ばれるウォーレン・バフェットがどこかで「私が石器時代に生まれていたら、金持ちになることはなく食われて終わり」といったことを発言しました。ウォーレン・バフェットの投資能力は卓越したもので、それに応じた名声を得ました。しかしそれは金融市場というものが存在する現代だからこそです。石器時代に生まれていたら、彼の財務分析能力は何の役にも立たず、足手まといでしかないでしょう。

優れたスポーツ選手も同じです。年棒何十億円と稼ぐスポーツ選手は、スポーツビジネスがある現代だからこそ活躍し、それだけの収入と名声を得ることができています。スポーツビジネスが存在しない時代なら、ただの運動神経がすごい人という評価でしかないでしょう。

夫

自分がある能力を伸ばせたこと、その能力が評価される時代であること。これらは運次第です。僕も幸いなことにしっかり働いてそれなりに評価され、それなりの収入を得ていますが、そういう時代に、そういう場所で生まれた、という運の要素が一番大きいのかもしれません。

本書では最終的に、能力主義の問題点を解決した新しい社会を構想していますが、僕の結論は少し違います。「実力も運のうち」を事実として受け入れた上で、しっかり能力を発揮していきたいと思いました。「運良く能力を手に入れたのだからしっかり活用していこう!」という感じです。

それだとこの本を読む前と読んだ後で何も変わっていないじゃないか…と思ってしまいましたが、自分の実力や能力が運によってもたらされた、ということを実感できたことが、本書を読んで得た一番大きな変化です。

夫

所詮、運によってもたらされたものだから自分の能力がどれだけ高くても驕り高ぶる必要はない。ただ運が良かったことに感謝しながら、自分の能力を使って社会に貢献していこう、という結論です。能力主義意外の社会構造や格差の是正、チャンスの平等などは、マイケル・サンデル教授のような専門家や政治家に任せます笑。

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